桜月流

桜月流という剱舞で舞台を作る集団があります。
奉納舞に呼ばれることもあるようで、その「和の美」は海外公演でも高く評価されています。
私はこの桜月流美剱道を、もう6年位前からずっと習いたくて、でも仕事の都合で
道場に定期的に通うことが出来ないので、憧れていながらも
まだ一度も体験したことがありません。残念。
公演もタイミングが合わず、まだ見ることができていません。
それなのに、どうしてこんなにはまっているかというと、やはり以前から剣道や
日本舞踊、奉納舞といった日本独自の文化に関心が高かったからですね。
桜月流のHPを見ると、私がやってみたかったものが見事に融合している姿が
垣間見られて、ひたすら「すごいな~。見てみたいな」という気持ちにさせられます。
剱=ツルギという考え方が新しいのです。
また、この桜月流は神谷美保子さんという女性が宗家で始めた新しい流派。
神谷さんの感性も独特で、ブログを読むと感動します。
最近更新がないのが残念ですが、きっとお忙しいのでしょうね。

さて、この桜月流。今度から「桜月カルチュア クラス」というのを開講したそうです。
月1回のペースで「剱で遊ぶ」をテーマに活動するそうです。
これに一度行ってみたいな~、と最近切望している私です。
あの世界に一度でいいから触れてみたいです。
でも、私は立ち居振る舞いからしてなってないから、きっと綺麗に出来ないんだろうな(涙)
もし、運良く参加することができたら、またブログでご報告したいと思います。

真・善・美

これが元祖・流鏑馬、800年ぶり再現に“巴御前”も(読売新聞)

流鏑馬の発祥の地は城南宮だったのですね。知りませんでした。
しかも、倭式弓馬会というのも初めて聞きました。
今回、初めて城南宮で流鏑馬を再現したということです。

私は流鏑馬が好きですが、実際には一度しか見たことがありません。
小笠原流は有名ですよね。歩射は今までに二回くらい見たことがあります。
流鏑馬の場合は駆け抜ける間に射る上に、馬のコンディションも関わってくるので、
当てるのは難しいだろうな、と思います。

もともと弓道はすごく好きなのです。全然、自分はやったことはないですが、
ずっとやってみたいなあ、という気持ちはありました。
弓道の最高目標、「真・善・美」っていい言葉だなあ、と思います。
もう少し若かった頃はうさんくさい、と思っていましたが、解釈するとなるほど、
日本の古き良き観念という感じがしてきます。
つまりこの言葉が教えているのは、弓道というのは的中させることよりも
その場に臨むまでの努力や鍛錬が反映するということなのかな、と思うのです。

いや、的があってそれを狙うのですから、当然皆「真ん中に当たる」ことを望むでしょう。
でも、根本的にはその矢が「当たったか当たらないか」という結果論ではなく、
矢を当てるためにどんな努力をしたか、自分なりにその道を追求し、ベストをつくしたか。
そこに集約されているような気がします。
だからこそ、きちんと自分と向き合ってその場に臨んだ人は、たとえ矢が外れたとしても
「美しい」と感じられるのであり、そういう気迫を感じるのだ、と。

何だか観念的な話をしてしまいました(笑)
これを書いていて「ああ、自分は最近、何かで『美しい』と言われるほど、努力したろうか?」
とすごく反省しました。「真・善・美」とは程遠い・・・。少し気合を入れなくちゃなあ。

阿修羅像

興福寺の阿修羅像が好きです。
あちこちのお寺の仏像を見るのが趣味である私ですが、この阿修羅像だけは別格。
心の恋人と思っています。この愁眉に満ちた表情が、魂を揺さぶるのです。
萩尾望都さんの「百億の昼と千億の夜」に登場する阿修羅は
この阿修羅像をモデルにしているだろう、と思います。
少年・少女どちらとも取れる、両性具有的な存在であり、「大いなる意志」に抵抗する
強さと激しさを秘めていますが、決して戦いを好んでいるわけではない…
というのが伺えます。

阿修羅はインド神話の「アスラ」が仏教に取り込まれたと言われています。
仏教においては修羅界の主、そして帝釈天と長きに渡り戦ったことで有名です。
荒々しい怒りの神のイメージで捉えられがちな阿修羅ですが、興福寺のこの像だけは
趣が違っているというのも興味深いところです。
阿修羅を究める」という本にはその辺りの研究も載っているようなので
今度、読んでみたいと思っています。

しかし、仏教の考え方って時々分かりません。
もともと、阿修羅が帝釈天に反抗した理由は、娘を強引に奪われたせい。
それを仏教では「過ぎたことにずっと拘り続けるのは良くない」と
解釈するという話もあるそうで…。
まあ、この話の中では、その娘は帝釈天の妻として幸せになるので
「結果的に良かったんだからいいじゃん!」っていうことなのでしょうか。
でもちょっと納得いかない感じです。

でも、何はともあれ私は興福寺の阿修羅像に会いたい~!
しかし、こんなものも見つけちゃいました。
…確かに、最初はそうだったんだろうけど…。いやだ~!イメージがあ…。

キリスト教

先日、友人に間違ったことを言ってしまったので、お詫びの意味で今日はこの話題を…。
「カトリックとプロテスタント」
うっかり先日、「カトリックは旧約聖書、プロテスタントは新約聖書」と言ってしまいました。
それ、大きな間違いです。ごめんなさい。
大学一年の時、教養ゼミのテーマが「各地の神話と聖書」だったので、聖書のことは
結構読み込んでいたつもりだったのですが、ユダヤ教とキリスト教の違いを
間違えて、カトリックとプロテスタントの違いとして言ってしまいました。ごめんなさい。

では、正しくは。
カトリックもプロテスタントも、「キリスト教」ですので、聖書(旧約・新約両方)が聖典です。
違いはたくさんありますが、カトリックはローマ法王を中心とした組織で、
プロテスタントは宗派がたくさんあります。
元々は、世界史でも習ったと思いますが、ルターやカルビンが宗教改革で離党し、
新しく打ち立てたのがプロテスタントです。
分かりやすい違いで言えば、プロテスタントはマリア崇拝はありません。
マリアを特別な女性として、マリア像を置いているのはカトリックの教会ですね。
それから、神父はカトリック、牧師はプロテスタントです。
コンクラーベの時、話題になっていたのでご存知かもしれませんが、
カトリックには女性の聖職者がいません。そして、聖職者は一生独身です。
牧師は女性の方もいますし、結婚もできます。
神父は神との仲介者としての役割がありますが(おそらく、これには宗教改革以前
聖書は教会でのみ読み聞かせられ、一般の信者には与えられなかったことも
関係していると思いますが)、牧師は信者のまとめ役で、プロテスタントの場合、
神と信者は直接つながりを持つことができるという考え方です。
教えの内容的な部分については、私も詳しくは分からないのですが
カトリックは、マリアやキリストの使徒達を聖人として崇拝の対象にしますが
プロテスタントは、父・子・聖霊の三位一体の神だけが崇拝の対象です。

というところで、旧約・新約での分かれ方はしていません。
蛇足ながら、なぜ旧約・新約、というかというところを書いておくと
神と民の契約が、イエス・キリストの降臨によって新しい契約がなされた、
という解釈でよかったかと思います。
もしも、またもや間違いがありましたら、ぜひお知らせ下さいませ。
一応、いつもブログを書く時は下調べをして、間違いがないかどうか見てから
書いているつもりですが、それでも間違えることもあるかもしれないので。

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